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「民衆新聞」のジャーナリストでありつづける▶戯曲『ロボット(R.U.R.)』を出版した翌1921年(31歳)、勤めていた「国民新聞」がナショナリズム的傾向に傾斜し、チャペックは兄ともども「民衆新聞」のプラハ編集局(初期はモラヴィア民衆党の機関紙でした)へ移りました。そこで亡くなるまで「民衆新聞」で働くことになります。「民衆新聞」は第一次大戦後のチェコ共和国の建国(1918年)からミュンヘン会談(1938年)まで、リベラルで非コミュニスト知識人の主導的新聞になり、チェコ・デモクラシーを民衆に深く浸透させた新聞でした。 チャペックはかつてのチェコの優秀な2人のジャーナリスト、革命の挫折後に民主主義のために戦い、警句(アフォリズム)と風刺詩にたけたカレル・ハブリーチェク・ボロフスキーと、日常の出来事についてウィットと毒の効いた辛辣な文章(フェントンという)を書き詩人だったヤン・ネルダの才能を自身の内で合一しました。チャペックは鋭い洞察力とユーモアと政治的分析力をもった作家で、注釈者で、他の追随を許さないフェントンの作者だったのです。 チャペックの”マインド・ツリー(心の樹)”において、「民衆新聞」での活動はその太い「幹」とも、実際に痛めていた「脊椎」にも相当します。芯をしっかりとさせたからこそ、後の活動を呼び込むことになっていったといえるでしょう。
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マサリク大統領の文化アドバイザーとして政治的コメントやエッセイは週刊誌『現代』を含め数十の新聞・雑誌に掲載されるようになり、時のマサリク大統領は、2世代も差のあるチャペックを友人とし文化面におけるアドバイザーの一人として受け入れました。国際交流も勢力的にこなし民間のチェコの文化大使のような機能をはたしていきます。またチャペックのデモクラシーの危機の原因について分析した文章はヨーロッパのエッセイ文学の頂点ともいわれます。 |
・参考文献『カレル・チャペック』イヴァン・クリーマ 青土社 |
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