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はじめに:アイルランドの憂鬱な時代に生まれる長期の翻訳期間を経て日本語訳された20世紀史上最難関の文学であり、20世紀に最も影響力のあった著書でもある『ユリシーズ』、そして『フィネガンズ・ウエイク』を著したジェイムズ・ジョイス。マルセル・プルーストやウィリアム・フォークナー、ヴァージニア・ウルフらとともにモダニスト小説のキーとなる小説群を生み出したジョイス。名前や作品だけが、雲上の大樹のごとくあるのですが、それが一体どのような”樹”なのか、何処にある”樹”なのか望遠鏡でのぞいてもなかなかおいそれとは見えてきません。茫洋としすぎてしまいます。このジェイムズ・ジョイスの「マインド・ツリー」は、ジョイスの小説と人物の理解への一つの扉となっています。彼の「心の樹」の成長に少しでも触れえたらぜひ小説を一度手にとってみてください。多様な「発見」に導かれるとおもいます。 ジェイムズ・ジョイス(James Augustine Aloysius Joyce – 1941年1月13日没)は、1882年2月2日、アイルランドのダブリン市郊外の由緒ある赤レンガの町ラスガーに10人兄弟の長男として誕生しました。数ヶ月後の1882年5月6日はアイルランド革命史上重大な事件「フィーニックス公園の虐殺」が起こった年で、独立運動のリーダー、パーネルがオシー夫人事件に巻き込まれリーダーの座から落ち頓死してしまっていた。9歳のジョイスは、その事件を題材に「ヒーリーよ、お前もか」(パーネルを裏切ったヒーリー)という詩を書いている(父がそれを印刷し知人たちに配るほどの出来映え)。
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坂を転げ落ちていった10人兄弟の裕福な家庭塩とライムの製造業を営んでいた父ジョン・スタニスロース・ジョイスは町の人気者で知的道化だった、『ユリシーズ』の中で「医学生、テナー歌手、素人俳優、小地主、小投資家、大言壮語する政治屋、酒呑み、善人、収税吏、破産者でもある」と主人公スティーブン・ディーダラスに語らせている。ジョイスが生まれた頃はかなり裕福でしたが収税吏を免じられて以降、放蕩もたたり家計は厳しくなり居を移す度に小さな家になっていきました。11年間に9回も引っ越したようです。母メアリーはピアニストで忠実なカトリック教徒でした。性格は優しくおとなしいが、ジョイス家のやりくりは母あってなんとか成り立っていたようです。母方は音楽家の家系で、父もテナー歌手をしていた時期もあり、ジョイス自身も美しいテナーの持ち主で、声楽家をめざしたこともあったほどでした。 6歳の時、イエズス会系の学校に入学。ジョイスは体育が苦手だった反面、とくに作文が得意で、この頃は社交性があり、行儀もよく、成績優秀として知られ模範生でした。すでにテナーの声の持ち主であることは周囲にも聞こえていて、素人ながらの舞台俳優としての能力があったようです。ただ感受性が極めて強く、魂の孤高を誇ろうとする強烈な反発精神の姿勢がこの頃からみられました。自身の正義が犯されたと感じる時には執拗に食い下がりその問題の最高の権威のところに直接、問題をもちこんで解決しようとする姿勢もすでにみられました。
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学校の学費が払えなくなり退学。ダブリンの町をあちこち歩きまわるジョイス10歳の時、父が経済的に破産し全寮制学校の学費も払えなくなりました。ジョイスは退学を余儀なくされてしまいます。仕方なくジョイスは自宅で勉強をしたり、カトリック教区学校クリスチャン・ブラザーズ・スクールに一時的に通いましたが、そこにも居場所はなく、この頃からダブリンの町中をあちらこちら歩きまわる癖がつきました。翌年には再びイエズス会の学校ベルベディア・コレッジが聖職者になることを期待しジョイスを招きますが、かつては心にもっていた宗教的な情熱はすっかり消えてしまっていました(ジョイスは16歳の時に信仰を捨てています)。 |
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社交性が消え内向的に。周囲からの孤立ジョイスから社交性が消え内向的になっていきました。しばしばジョイスは若い頃から内向的で感受性が極端に強かったと書かれていますが、それは絶えざる引っ越しなど家庭環境の激変が招いたようです。もっともこの時期の変化は、ジョイスの本来の”魂”を早い段階に成長させ発酵させたともいえます。幼い頃からの鋭い頭脳は、周囲に対して皮肉と冷笑の態度をとらせはじめます。結果、他の学生から孤立しはじめてしまい、それが傲慢さと頑固さとして受け取られる性格を生み出してしまったようです。 16歳の時、ベルベディア・コレッジを卒業し、就職に就くか、法律家への道を歩んで欲しいという父の望みを無視するかたちで、ジョイスはダブリンのユニヴァーシティ・カレッジの教養学部に入学したことにもその当時のジョイスの性格が反映されています。背が高く痩せていて、細長い顔に青い眼、そして顎をよく突き出す癖がありました。アリストテレスとトマス・アクィナスを愛読し審美主義を究極の目標におくようになっていました。バチェラー・オブ・アーツを取得、芸術家として生きる覚悟をします。ジョイスの醸し出す孤高の雰囲気は、さらに周囲と距離を生んでしまっていました。青年としての性のめざめも手伝いカトリック信仰に疑念をもちはじめたのもこの頃でした。 ジョイスは家庭でも、学校でも、カトリックの信仰面においても、距離がでてしまい心を寄せ合うことができませんでした。成人してからも「文芸復興運動」や政治運動にも距離を置いていたことを考えてみても、周囲と協調、連体、同化することが極めて苦手であり孤高であることを自身の魂はよし、としたのです。身体的にもほっそりとし痩せ形で、顎が張っている顔相はそうしたタイプが多いようです。 そのなかでもジョイスはかなり極端だったようで、周囲の環境をすべて”醜悪”と感じ取り、そのやりきれない最悪の環境から脱出する以外に、自身の”魂”を守ることはできないと感じていたのです。単に、”脱出”するのならすぐに家出をすれば済むようなものですが、ジョイスには別の「自覚」「認識」がありました。それは言葉によって崇高な芸術を創造すること、自身の「芸術家としての自覚」でした。周囲の醜悪な環境の中で、いかにしてそれが可能となるか、それはジョイスの哲学であり、現実との格闘の方法でもあったのです。
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◉青年期:Topics◉大学時代、W.B.イェイツやグレゴリー夫人が中心メンバーとなって展開されていた「アイルランド文芸復興運動」に対して、ジョイスは文学運動に芸術家が参加するとは群衆に服従すること、また濃厚な愛国主義的空気が知的自由さを制限すると考え、傍観者の立場をとる。イェイツの芝居『キャスリーン伯爵夫人』がアイルランドの国民的英雄を侮辱するとしてユニバーシティ・コレッジ大学生全員が反対の署名をした時、ジョイスは署名を拒否。W.B.イェイツとは独特な関係が維持される。学生時代にジョイスはイプセンに熱中している。イプセンの独立孤高の精神や知的厳しさ、広くヨーロッパ諸国へと国境を超える展開がジョイスを魅了した。それはジョイスの精神の「鏡」であり、向かうべき道であったのだ。原語で読むために北欧語を勉強しイプセンの新作『われら死者が目覚めるとき』についてエッセイを『フォートナイトリー・レヴュー』誌に送った。掲載されたエッセイにイプセンから感謝の手紙が送られてきた。またイプセンの後継者といわれているゲルハルト・ハウプトマンの翻訳もしている。イプセンの研究は後にジョイス唯一の戯曲『追放人』となった。20歳の時、当時アイルランド本国でもあまり知られていなかった詩人ジェイムズ・クラレンス・マンガンについてのエッセイも発表している。
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