日本でもこの映画を御覧になった方は相当数いるわけだが、観た方は橋の上で撮られた写真が最後どうなったか覚えておいでだろうか。とくに写真家の方がその写真をどうしていたかを。ぜひ、思い出して欲しい。じつはわたしは、相当に驚いた。写真の一つの謎がそこにあるような気がした。昨今の情報化されるのを今かと待ち受けている写真、あるいは写メールで恋人や友人に送ってその数秒後には消滅させられてしまう写真とは決定的に異なる写真。一九世紀後半以降の資本主義と添い寝してきた写真の歴史とは、真逆の写真がここにあるのだ。
ここでクリント・イーストウッドが好演した写真家(五二歳。ロバート・キンケイド)が何者だったか確認しておきたい。あるいは解明しておきたい。何もそこまで、というなかれ。キンケイドはただの写真愛好家でも、グラフジャーナリズムの契約カメラマンなどではない。彼はかの有名な『ナショナル・ジオグラフィック』の契約カメラマンなのだ。『ナショナル・ジオグラフィック』とは一八八八年にワシントンD.C.で設立され(当初から極めて政治的匂いが強い)、現在、世界一八○カ国以上の人々に購読されているあまりに有名な雑誌社だ。今でも古書店に行けば一部百円ほどの低価格で買えるあの黄色い縁の雑誌である。それ以外にナショナル・ジオグラフィック・チャネルは一四七カ国二五カ国語で約二億人にネイチャー・ドキュメンタリー番組を放送している。自然派ネイチャーの巨人である。現在も毎年五○○件以上の探検や調査、二五○以上ものプロジェクトに助成金を出しているという知られざる一面もある。 一九六○年代、七○年代中頃までは、同じくアメリカの雑誌『リーダース・ダイジェスト』と共に良識ある民主的家庭(米国の占領戦略の成功例)が毎月購読する雑誌として一世風靡してきた。日本では流行はやり廃すたりはやく過去の雑誌のように思ってしまうが、日本のどの分野の雑誌でもこの『ナショナル・ジオグラフィック』に相当する巨大雑誌メディアは存在しない。NHKの番組「地球・ふしぎ大自然」や「世界大自然紀行」辺りが内様的には近いものがあるが、それらは愛の巣づくりとかとかどこかヒューマン・ドキュメンタリー調の構成に仕立てあげている場合が多いし、総じて自然讃歌だ。付け加えれば、日本の自然写真(英語のネイチャー・フォトの短絡的翻訳語)は、明らかに『ナショナル・ジオグラフィック』に見られるような欧米のネイチャー・フォトとは似て非なるものがある。日本の自然写真は極めて情緒的だ。地理やサイエンスの意識はほとんど入ってくる余地がない。この件はまた別の機会に述べることがあると思う。 さて、主人公のキンケイドであるが、映画のストーリーから『ナショナル・ジオグラフィック』の仕事でそれまでに世界中を旅して(派遣され)写真を撮り続けてきたことがわかる。その彼がなぜに本社のあるワシントンD.C.から(映画の中でもその指摘がある)アイオワ州の片田舎のオンボロの屋根付き橋(カバード・ブリッジと一般的に呼ばれる)を撮りに来たか。編集部の要請に相違ない。彼は車のドアにも明記されているようにキンケイド・フォトグラフィーという個人写真事務所を経営し、『ナショナル・ジオグラフィー』にアサインメントをとって仕事にしているようだ。実際、時期はずれるものの『ナショナル・ジオグラフィック』は、マディソン郡のカバード・ブリッジを取材し、掲載もしている。屋根付き橋を見ると、古き良き時代の幌馬車を想像しないだろうか。ちなみに映画『駅馬車』の監督ジョン・ウェインはこの州の出身だ。 |
映画では、キンケイドの取材時期を一九六五年八月八日としている。この一九六五年、アメリカは、映画の中のように時間がすっかり止まってしまった空気の中にあったわけではない。大平洋の向こう側では、ベトナム戦争の戦火が拡大しようとしていたまさにその時期なのだ。日本でもB29が同年八月初旬に沖縄基地から発進し、ベトコンはサイゴン北東のカムラン湾で米陸軍101空輸師団を急襲し、ジョンソン大統領は各国からの北爆中止要請を断固拒否している。韓国も国会がベトナムに一個師団一万五千人の兵員増派を決定し社会は大きく揺れだしていた。まさにその時期に、キンケイドは一つの古い屋根付き橋を撮るために四日も費やしている(実際には、彼の当初のスケジュールでは四日か、五日。天候など諸条件がそろわなければ一週間までとってもいいことになっていた。四日立った後も、町を立ち去る事なくうじうじして滞在期間を延ばしている)。 ベトナムでは、日本から沢田教一、岡村昭彦、嶋元啓三郎、そしてポール・シャツナー、ラリー・バロウズ、ティム・ペイジら報道カメラマンたちが陸続とベトナムにはいり、非情な戦場の写真を撮りまくり世界のメディアに掲載されはじめている。まさにその時に、キンケイドは、ひとりのんびりと誰にも邪魔されることなくシコシコと古い小さな橋(ローズマン橋)を撮影していたのだ。しかもこともあろうか「よかったらお茶しに来ない…」と書かれたフランチェスカ(メリル・ストリーブ)の一枚の紙切れを橋の欄干に見つけ、一度は逡巡するものの誘われるまま翌日の夕刻遅くには再会している。いったいキンケイドは何をやっているのだ! 橋を撮るのに四日間、そしてその夜はビールやブランデーを飲み、夕食をたいらげ、お喋りを楽しみ、人妻が入る前に入浴までし、彼女を抱いてしまっているのだ。最初、大人の禁欲的純愛映画かと勘違いしていたのでこれには驚いた。美味しいところだけ全部体験してしまっているではないか。 何もキンケイドの人格を攻撃しようなどと思ってはいない。わたしも映画を観ている間はすっかりベトナムの戦火のことなど頭を過ることなどなかったし、二人のやり取りに夢中になってしまった口だ。しかもここはオハイオ州のド田舎である。夫と子供たちは隣のイリノイ州に子牛の品評会に出かけて誰もいない。ベトナムの戦火だって遥か彼方だ。キンケイドのために言えば、彼は世界の現実を知らないわけではない。むしろ一般の呑気なアメリカ人の何十倍も知っていよう。そのことはフランチェスカに初めて出会いローズマン橋まで案内してもらい川岸まで降り、明日の本撮影のためにテストしている時にわかる。真夏の八月、咽が乾いてフランチェスカが彼の車の荷台から冷たい7upを取ろうとしたときだ。荷台に被せてあったカバーを彼女が取り上げると、そこに無造作にのせてあるのは雑誌『LIFE』だった。表紙はまさしく爆弾が投下され炎を上げ逃げるひとの腕が見えている戦火の写真だ。フランチェスカは飲み物に夢中で雑誌の存在に目もくれることはない。オハイオの農家の専業主婦の典型はそうなのだろう。一瞬の『ライフ』の存在が、さらにこの映画をしたたかに深みのあるものに仕立て上げている。 |
二日目。橋を撮り終えたキンケイドは、突然フランチェスカを撮りはじめ驚かす。カメラは彼が使い慣れていただろうニコンに変わっている。ニコンといえば戦場カメラマンが最も愛用していたカメラ。フランチェスカはレンズの最高の獲物となったかのようだ。この瞬間、キンケイドの彼女に対する気持ちは決定的になり、彼女にもそれが間違いなく伝わっていく。彼はかつてインドで撮った写真をフランチェスカに見せる。彼女は「写真集にしたらどうかしら?」と薦める。が、キンケイドは「今の時代、こういう写真は売れないんだ」と力なく応える。実際六社から出版化を断られていた。それはインドの日常を生きるひとびとを撮ったモノクロームの写真だった。もし彼にインドの場末の娼婦たちを撮ったマリー・エレン・マークのような写真力(『Folkland Road』(1977))や、世界各地の底辺で働く労働者を撮るセバスチャン・サルガドのような企画力(『Workers』(1994))があればまたちがった写真家としての人生を歩んだろう。 彼はフランチェスカに告白している。「アーティストと呼ばれる資質がボクには備わっていない…」。彼に備わっていたのは、大地の匂いを確かに感じとる能力だった。「肥沃な大地の匂い。土の匂いがする。生きているというか…感じない? いい匂いだ」と。事実アイオワ州には米国の肥沃なA級土壌が集中し〈コーン州、つまりトウモロコシ州〉というニックネームがついている。〈コーン州〉は、四年に一度世界の注目を浴びる。大統領選で必ずトップを切って選挙結果が発表されるのだ。 世界を撮り続けてきた写真家には帰る土地が必要なのだ。イギリスのフォトジャーナリスト、ドン・マッカリンも後年、自身の生まれ故郷ウェールズの写真を撮り続けていた。その写真集『Open Sky(1987)』はその土地の伝説となっているアーサー王伝説が生きているかのような傑作だった。 改めて確認するが、キンケイドはベトナム戦争を対岸の火事とおもっていたとは思えない。逆に強く意識していたはずだ。が、『ナショナル・ジオグラフィック』の編集方針がある。戦場カメラマンになりたければ、マグナムや『ライフ』に行けと。『ナショナル・ジオグラフィック』社のオーナーやスタッフたちは、WASP(ホワイト・アングロサクソン・プロテスタント)がほとんどである。対してマグナムは、創立者のアンリ・カルティエ=ブレッソンやロバート・キャパらがそうであるようにジューイッシュ(ユダヤ系)の写真家がほとんどであり、『ライフ』にもジューイッシュのフォトグラファーが多い。WASpの写真家は、アンセル・アダムスやエドワード・ウェストンのように伝統的に大自然やクラシックな町が大好きなのだ。キンケイドは、アイリッシュだ。ジョン・F・ケネディーと同じである。アメリカではイタリアンと同様、人種的にはWASPの下に位置づけられる。彼が若くてまだ粋がよければこの時期も世界に勇躍していただろう。キンケイドはフランチェスカの質問に応える。「会社が求めているのはピントがあってて自己主張のない写真だけ。でもメイキング・ピクチャーはぼくの仕事なんだ」と。 |
時が過ぎ、キンケイドの遺品が突然、遺品管財人からフランチェスカの元に送られてきた。遺品の中にはカメラや十字架のペンダント(元はフランチェスカが故郷のイタリアのアッシジでつくってキンケイドにプレゼントしたもの)とともに、一冊の写真集が含まれていた。その写真集のタイトルは『4 Days』。この世でたった一冊の、美しい写真集だった。製本されていたがほとんどは彼の手づくりだろう。それはかつて六社から出版を断られた彼の写真集へのこだわりだったかもしれない。
写真集『4 Days』は、キンケイドの信仰心から生まれたものといっていいかもしれない。アッシジの十字架のペンダントに似て神との契約のようだ。そう、神と愛の契約をかわし、その証であるならば、まさに一冊の写真集は神に捧げられるものとなり、フランチェスカにすら見せる必要はない。また、彼女がキンケイドよりも先に亡くなる可能性も充分あったわけで、ここからも写真集は神に捧げられたものといえよう。だから契約の証は一冊で足りる。千部売り捌き自分たちの愛の形を皆に見せてやろう、と一秒たりとも考えなかったであろう。もう一つ付け加えれば、アイリッシュ(キンケイド)もイタリアン(フランチェスカ)もカソリックであり写真を生み出す母体になるプロテスタント&ジューイッシュ・スピリットとは幾分異なる。それは合理性や新しい知の結合には、どこか馴染まない伝統主義を深く抱え込んでいるからだ。