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映画の中に「写真」を読む ⚐     


映画『惑星ソラリス』Solaris  (1972) (日本公開1977)

監督 アンドレイ・タルコフスキー 

   

 

     原作 スタニスラフ・レム『ソラリスの陽の下に』 主演 ナタリア・ボンダルチュク、ドナタス・バニオニス女

    カンヌ国際映画祭審査員特別グランプリ受賞 カンヌ国際映画祭国際エヴァンジェリ映画委員会賞受賞

    カンヌ国際映画祭パルム・ドールノミネート


 世紀末の最後の年が明けた最初の春二○○○年四月、NASA(米航空宇宙局)のエイムス・リサーチセンターで「第一回アストロバイオロジー科学会議」が開催された。アストロバイオロジーとは、日本語では「天文生物学」という。聞き慣れない言葉であるが、この創設されたばかりの学問領域をNASAは主要研究テーマに位置づけた。その科学会議の最初の講演のテーマは「水」で、「水の歴史」と木星の衛星のひとつエウロパの海に関することに議論は及んだという。こうした情報は本映画と直接関係するものではない。けれどもタルコフスキー映画が製作された当時ではまったく予測もつかなかった宇宙的環境が現実にありうることがわかってきた現在、わたしはタルコフスキー映画に滴るあの水が、スクリーンの外にまで滲みて滴ってきているのではないかと感じてしまう。「水」は宇宙空間ですらそれほど稀な存在ではない。火星にもかつては巨大な氷河か大量の水(海)が存在したことが巨大な運河の痕跡から今やかなりの確度で推測されている。

 本映画は無論科学映画でもなければ実際の外宇宙を直接的に表現することもないが、タルコフスキー映画の時間が、〈時間の彫刻〉という考えをもとに、過去と現在と未来をまるで宙返りさせて捉まえているように思えば、二十一世紀という新しい時間線と宇宙観ともに、映像を受け取る方も大胆に思考してもいいはずだろう。

 もとよりこの小稿は映画『惑星ソラリス』を解説するものでなければタルコフスキー映画の神髄を語る場所でもない。また認識の限界や罪の意識の問題、未知なるものとのコミュニケーションの不可能性といった観点もここでは取り上げることもない。この小稿では「水」をスターティング・ポイントに、「写真」をヴァニシング・ポイント(消失点)にしようと思う。「写真」に触れる視点を装填した時、「水」にかかわる角度が微妙にゆらぎ、あるいは撹拌され、新しい宇宙像が垣間見えてくるのだ。それはこれまでの『惑星ソラリス』解釈とはいささか異なる視点をとるが、同時に予期しない発見をもたらすことになると思う。新しい島を発見するために海洋に漕ぎ出さざるをえないように。思うに冒険は決して監督や作品の側だけにあるのではないのだから。

 この映画には単に物語の叙述を避けたくなる何かがある。そうしたところでこの映画の本質は浮かびあがってこないばかりか、現実と幻想の間にスパイラルに落ち込むだけである。もう一つのバートン報告を伝えることになるだけだ(註1)。もっとも霊妙な「水」の存在については、「鏡」や「時間」といったタルコフスキー映画を特徴づける主題であり、タルコフスキーの他の映画『ストーカー』『鏡』『ノスタルジア』にも通底することはよく知られている。

 タルコフスキー映画にあらわれる「水」にかぎらず、「水」はあまたの液体の中でも極めて謎の多い、不可思議な存在であることは多くの研究者たちによって論じられている。水がじつに多くの情報や記憶を内蔵している/できる事、音楽(音)への感度が高く独特の波形をとること、固体化すると液体よりも体積が増すこと(すべての物質は逆である。固体化すると体積は減少するものなのだ)など枚挙にいとまがない。

 ドイツの流体研究家テオドール・シュベンクは、池や湖、そして海は、”一種の眼”のような存在であるという。彼によれば、「水」には元来、反射力と光を通す能力が同時にそなわっているので、光があたると大地全体にとり一種の眼のような存在になるという。森から流れでた水が、陽光に照らされると水は新しい状況に適応し、内奥の組織を変化させ、まるで感覚器官のように外界からの影響に対して自らを解放するというのだ。水は「自然の感覚器官」である。これが彼の研究成果から導きだした結論である。

 さらに彼は次のように語る。「水には無数の感じやすい膜が内側に織り込まれており、それらは外界に生起するあらゆる事象を〈知覚〉すべく待ちかまえているのだ。水はあの内表面の内側で閉じた状態にあるのではなく、外界に対して、そして外界からのあらゆる刺激、形態形成を促すあらゆる衝撃に対して、開かれている。それは特別感応力の強い媒体なのである。事実、あまりに敏感なため、直続する外界の変化への対応にとどまらず、惑星軌道からの微妙かつ微細な影響にも反応するほどである」と。

 

 つまり「水」は外界を映す原初的な存在なのだ。ギリシア神話のナルシス以降、水は透明な鏡のような物質として自身の姿形を映すだけでなく外界に反応するナルシスたちに貢献ばかりしてきているようにみえるが、「水」の方もナルシスの姿を感応し情報として映し込んできてもいるのだ。またナルシス以前の数百万年、数千万年の間、「水」は悠久の時間をかけ外界を知覚してきているのだ。ナルシスの脇に生えていた木々の葉や空や雲すらも、はたまた宇宙の星々の光までをも微細に感応しているのだ。それと同じようにこの映画の冒頭に映されるクリス・ケルビン(ドナタス・バニオニス)の家の前の池の水も何千年、何万年と絶えまなく外界の情報を映し込んでいるのだ。「水」はつねに〈知覚〉している。〈知覚〉すべく待ちかまえているといってもいい。それゆえソラリスの海と地球上のその池の光景は繋がっている。最後の場面で、クリスの家の中にいる父親に降り注ぐ水、そして視点が上空にどんどん上がっていきクリスの家が見えたかとおもうと周囲は霧状のものに囲まれ、ソラリスの海のまっただ中にあったというあの衝撃的シーンとも〈宙返り〉して繋がっている。「水」は地球上を循環するだけでなく、宇宙空間をも転位し循環する宇宙的な存在のだ。

 公開当時多くの観客は、クリスは最終的に地球に帰還したにもかかわらずあのシーンはどうなっているのか狐につままれたようだが(今でも多くのひとはそうだろう)、おそらくは宇宙ステーションに出現したクリスの妻ハリー(ナタリア・ボンダルチュク)と同じようにクリスの夢の中の記憶の断片からソラリスの海が創造した複製物なのだ。なぜなら宇宙ステーションに”お客”(ハリー)が来なくなった代わりに、海に「島」が幾つもできはじめた、というシーンがあるからだ。なぜソラリスの海にハリーだけでなくクリスの家や近隣までもが現れたのか。クリスにとって家は(クリスの父のお祖父さんが建てた家の造りを模倣したものだと父が語るシーンがある。ひとも家も〈転生〉されうるのだ)、そして父は、また近隣の土地すらも、良心の呵責、罪、慰藉の存在であり対象なのだ。家の中や父の上にも水が滴り落ちる光景にクリスは膝まづくしかない。若菜薫氏(『聖タルコフスキー・時のミラージュ』鳥影社)は、クリスの家を含めた地球全体がソラリスの海の派生物だとするが、ある視点を置けばそれはまさにその通りであろう(わたしは派生物というより「転生的創造物」とでもしたいが)。その視点とは「神」ゴッドであり、創造主=惑星ソラリス、というものである。この映画の続編がもしあれば、地球上には〈ソラリス教〉信者で溢れかえっていよう(ロシアではなさそうだが)。宇宙は無限に広大で惑星ソラリスは複数以上あるだろうと推測したり、惑星ソラリスは想像を遥かに超えた高度な文明の成れの果てだという仮設をとれば(原作「ソラリスの陽の下に」より)、地球はソラリスの海の派生物だというわけにはいかなくなる。

 

 私の考えでは、あの幻想的で衝撃的な最後のシーンは、地球上のシーンと惑星ソラリス上のシーンの、イメージ上の大胆な繋ぎから生まれたものだと思う。最初が地球上のシーンである(クリスは地球に帰還しているのだ。あのシーンをすべてをソラリス上の幻想的リアリティに帰納させることは、タルコフスキー的感性からすればありえない。母なる大地と森や水、そして記憶からしかあの独特のノスタリジーは滲み出ることはない)。まるで上昇する気球にでも乗ったかのようにぐんぐん上空へとのぼっていくと、家を遥か下方に望むようになる(クリスの家の部屋の壁に気球の絵が飾ってある)。いったん下界が雲に隠れるが、じつはそれ以降の映像はソラリス上の家と映り変わっているのだ。クリスの記憶を基に惑星ソラリス上に生み出されたゼリー状のクリスの家と、その周囲の風景なのだ。そう考えることができるのはバートン報告で宇宙飛行士バートンがソラリスの海の上に本物そっくりの公園が見えたという件がくだりあるからだ。まさに最後のシーンで真下に海の中に浮かぶようなクリスの家は、バートン報告でいうリアルな公園と同じなのだ。それにはまさに映画だけがなしうる映画的リアリティーの出現といっていいだろう。

 さて、宇宙を航行すれば、地球も惑星ソラリスも、その鮮やかに広がる「海」は暗黒空間に浮かぶ巨大な”眼”と見えよう。かの岡本太郎は遺作となった著書(『宇宙を飛ぶ眼』みすず書房)で、「宇宙を飛ぶ眼」について次のように書き遺のこしている。「眼は存在が宇宙と合体する穴だ。その穴から宇宙を存在のなかにとけ込ますのだ」と。岡本太郎は眼に宇宙が流れ込み、溶けこんでくるというのだ。とするならば地球上、何千キロ離れた地点であろうが障害はなくなる。地球上どの地域もその上空で宇宙と接しているからだ。同じ感性をもつ眼であれば、宇宙の無限のダイナミズムを地上に刻みつけることが可能となるのだ。岡本太郎が発見した縄文とケルトの紋様の相似はまさにその好例だといえよう。岡本太郎の二つの巨大な熱い眼は、時空を超えて彼らと同じ眼力と感応力をもっていたにちがいない。

 同時に、宇宙を飛翔する巨大な〈眼〉である地球や惑星ソラリスは、まさしく宇宙と合体する穴であり、シュベンクが語るように宇宙を存在のなかにとけ込ます場所なのだ。宙を飛ぶ巨大な眼は、すべてを映しこみ、情報を転移(転位)させる。地球も何億年も前から(いくらスローにみえようが)ソラリスの海が成したことをおこなってきたのだ。それはいっけん宇宙情報の「地球化」のようにみえるが、じつは地球という惑星の「宇宙化」なのだ。これはかつてバックミンスター・フラーが、われわれが乗船しているこの惑星は「宇宙船『地球号』」なのではなく、真実は「地球船『宇宙号』」なのだ、と言ったことと相同する。

 そうした仮設と同期するように、わたしは「水(海)」は驚くべきパワーを秘めた変幻自在の宇宙の”中継ステーション”ではないかと勘ぐっている。ソラリスの海のように巨大な海となった水は、まず宇宙からの情報をキャッチする。そしてシュベンクの言うようにその情報を知覚し映し(移す、写す)込み、内部に溶かし入れ、その情報のパターンを織り込んでいく。重要なのは宇宙からの情報のレシーバーとなるだけでなく、惑星の温度や湿度などの環境に合わせ、「水」は気体になったり氷と化したりすることもできることだ。つまり惑星と相互作用を起しつつ共同で惑星の条件にあった精緻なメカニズムをつくりあげていくことができるのだ。 地球も数億年をかけて惑星ソラリス顔負けのことをやりとげてきた。地球という惑星にあわせ”有り難い”生命を生み出してきたのであれば、「ソラリスの海」が超高速度撮影するかのようにあまりに手際よくハリーたち〈超擬態〉をつくりだしたので、クリスもわたしたちも面喰らいはしたが。高速度撮影といえばタルコフスキーはこの映画内で実際に使っている。それは東京の首都高速道路で撮影したシーンでとくにその後半の立体交差した道路で現した数カットは加速する時や環境を現しているといっていい(かなり無理して挿入された感があるが)。地球上の技術文明もこの調子で加速していけば、ソラリスのような惑星になることを予感させるようなショットだ。クリスが宇宙ステーションに飛び立つ直前のシーンのため加速する文明や技術力への考えが現れているとおもわれる。

  

 さて、高度な複製能力をもつソラリスの海だが、宇宙ステーション内もそもそも「複製」に満ち満ちているのをどう考えればいいのだろうか。図書館と呼ばれる部屋の壁面は、記憶の集積でもある書籍や芸術作品で占められている。東南アジアかどこかの未開部族の赤い怪物のような仮面、ついで白い石膏でできた彫像、ミロのヴィーナス、ステンドグラス、石膏のマスクとギリシア彫刻、ピーター・ブリューゲルの絵画(「雪のなかの猟師たち」と「バベルの塔」)。これらの芸術作品はどれもが「複製」である。一点たりともオリジナルはないだろう。そもそも図書館というものは複製された印刷物の貯蔵庫である。宇宙ステーション内に出現したハリーもクリスの記憶の一部を複製したものだが、生物学者のサルトリウスはそのハリーに対して「君は複製にすぎない」と頑として認めようとしない。しかし、その時、サルトリウスの背景にはミロのヴィーナスの複製がみえるのだ。

 もう一つの重要な複製物の「写真」はどうだろう。じつは本映画の中で「写真」は頻繁に顔をのぞかせる(まさに顔が写された写真がほとんどだ)。まず家の壁に掛けられた若かりし頃の母の写真のクローズアップ(註2)。主人公クリスの妻ハリーのポートレイト写真(彼女は自殺していてクリスには悔恨の念がある)、それと一緒に戸外で燃やされる過去の写真。象徴的なのが宇宙ステーションで実体化したハリーが自身の写真を見る場面だ。クリスは最終的にはハリーのポートレイト写真を焼却していなかった。捨てきれずに宇宙ステーションまで持参していたのだ。ハリーがクリスの鞄に入っている写真を偶然見つけ出すのだが、複製されたハリーにはそれが自分自身だということが分からない。ハリーには記憶がないので(つまり内面が欠如している。美しい外面だけだ)、自分を自身で認識することができないのだ。直後ハリーは鏡に写った自分の姿とポートレイト写真を照らし合わせ、ようやく自分の姿がわかる(自分が誰なのかは分からないままに)。これは鏡(あるいはナルシスのように水面)で自身の姿を認識しなければ、「写真」を見てもそれが自分だと分からないことをも意味していよう。ひとは顔写真だけ突然見せられてもそれが自分だと認識はできないわけで、映されることで自分を識るようになっていくのだ。認識の問題(自己の認識の第一歩)がここにもあらわれている。そしてソラリスは、認識の限界について問われているともいわれるのだ。

 また宇宙ステーションで自殺した物理学者ギバリャンは、机の上で一冊の古い写真集を開いたままピストルの引き金を引いたようだ。その写真集には、はっきりとは分からないがかなり古い時代の教会らしき建物が写っている(タルコフスキーの映画『アンドレイ・リブイリョフ』をつい思い出してしまうが)。ギバリャンの自殺は、ハリーとは逆に過剰な内面とそれに伴う厳しい自問と懺悔によって引き起こされたのではなかろうか。じつは写真集の各ページに写されている被写体は、ひとの意識や無意識なるもののいわばインデックスのようなはたらきをすると考えられる。そこに魂が触れれば無意識の水底まで一気にもっていかれるかもしれない。長い時間をかけ意識の深部にあったものが、ここソラリスで瞬時にして複製コピーされ、何の前触れもなく顕現されることは、精神的にも耐えられないだろう。時の経過があるからこそ、魂はそれに耐えられるまでに成長するのだ。

 写真は眼前の被写体を人間の能力では不可能な早さで(時間をたっぷりかけて描いても無理だ。スーパーリアリズム絵画は写真からおこしたもので、写真が前提とされ発想されたものだ)高速で写し(移す)とることができる光学的にして化学的技術である。彫刻や絵画は制作者の内面や複雑な心理的過程をへる分、制作には相応の時間がかかるだけでなく複製は容易ではない。写真は「複製」すら容易におこなえるし、そもそもネガ・ポジ方式の発明(1839年 英国タルボット)以降、それは「写真」の本質に直結するようになった。写真発明以降、一五○余年の間に複製コピーにかかる時間はどんどん短縮されていった。さらにデジタル・カメラともなれば、複製はワン・クリックだけだ。まさに加速する一方である。勿論、ソラリスの海でなされていたことは直接、この延長線上にあるわけではない。ひとの記憶を模倣し、ニュートリノ系のゼリー状の物質に組成させることはまったく別種の、現在では未知の高度なメカニズムがはたらかなくては成立しえないものだ。

 

 しかし「水(海)」の潜在的パワーはすでに立証済みであるし、すでに多くの分野で活かされはじめている(自動車のでもガソリンの代替エネルギーとしての水素分解など)。先の「天文生物学」が「水」を最重要テーマに選んだように、宇宙空間には「水」が様々な様相で存在し、宇宙規模の、あるいは惑星規模の「写場」となって、宇宙の情報を写し(映し、移し)込んでいることはまず間違いない。そして惑星を生き生きとさせ、生命を育む”母性的”な働きをする必要不可欠な触媒となっている可能性は予想以上に高い。

 

(註1)ソラリスの海で公園や4メートルもあろうかという胎児を見たというもの。停滞したままのソラリス研究の鬼子となった報告で、主人公クリスはすべてを明らかにするために派遣された。

(註2)若い頃の母の写真が不自然なほど大きく引き伸ばされ大切に壁に掛けられている。宇宙ステーションに出現する若い母の姿をここで一度確認させておく必要からだと思ったが、クリスはマザコンでハリーの自殺の引き金の一つになっていた可能性もある。

 by Art Bird Books : text by M.Kato     Back