『情事』(1960)、『太陽はひとりぼっち』(1962)などで世界的な注目を浴びたイタリア映画界の巨匠ミケランジェロ・アントニオーニが、初めてハリウッドのプロデューサーの依頼を受けてつくった映画が『欲望』である。ロケーションはロンドン。ミッド・シックスティーズのスウィンギング・ロンドンの熱気を奔放にほおり込んだモード感覚溢れた映画だ。通好みでスタイリッシュな感覚に鋭いひとならば、映画と同世代の五○代から四○代、三○代、さらにはニ○代、一○代後半の映画フリークまで、一度は観たことがあるのではなかろうか。否、ニ度、三度と観ているひとは読者諸氏、周りにも必ず何人かいるはずだ。それもそのはずで、モッズファッションに身を包んだ主人公の売れっ子カメラマン、トーマス(デヴィッド・ヘミングス)のイメージは、あの六○年代の若きスターカメラマンのデヴィッド・ベイリーだし、ハリウッド映画初出演のジェーン・バーキン(全裸シーンは当時この映画の注目度をさらに高めた)、トップモデルで後にアーティストになるヴェルーシュカ(註1)、音楽は「処女航海」で注目されだしたハービー・ハンコック、ロンドンの麻薬パーティー、演奏シーンにはヤードバーズ、ジミー・ペイジにジェフ・ベックだ。視覚的なインパクトでも相当である。そのためこの映画についてのほとんどの評は、こうした目立った事柄(それは観る者の”欲望”にもあるわけだが)をトッピングに、公園で撮ったカップルの写真を引き延ばしブロウアップたなかに、女性の視線の先にピストルを構える男と死体が映っていたこと、そして、その後に死体が消え去ったサスペンスフルな不条理劇、あるいは「現実」と「虚構」についての物語であるとまとめられる。しか本作は映画であって小説でも演劇でもない。不条理劇では測れない空気が立ち篭めているのだ。じつはなかなかに念入りに写真(写真家)なるものをこの映画は描いている。イカすファッション写真のシーンばかりに意識がいっているひとには冒頭のシーンはまったく記憶がないにちがいない。ロンドンの場末にある労働者階級用の宿泊施設から中年の男たちがぞろぞろ通りに出てくる。彼は小さな紙袋を小脇に抱え、上着をだらしなく着ている。それが次のシーンで一変する。施設で知り合った三人の中年男たちと別れると、トーマスは悟られないよう小走りに行き、他の車の影に隠すように駐車していた高級車ロールスロイスのオープンカーに乗り込む。人気のファッションフォトグラファーのその奇妙な行為の理由は、映画の途中までくるとみえてくる。美しいモデルばかりに眼が行っているとそのシーンはほぼ絶望的に記憶から外される。そういう仕掛けがしてあるのだ。〈欲望〉しているのは写真家トーマスではなく、モデルたちと映画を観るわたしたち、それとこの映画の邦題「欲望」を付けた配給会社だということがみえてくる。次のシーンでトーマスがひとから欲望される存在だということが現される。すでに冒頭に登場していた愚連隊のごとき騒々しい二○人程の若者たち(顔を白塗りしている者はピエロのようだ)がトーマスのオープンカーを取り囲む。彼等は口々に「マネー、マネー」とせびる。トーマスは後部座席の新聞の下に無造作に置かれたお金を取り連中に与える。このシーンで売れっ子写真家がどのような社会的ポジションにいるかを監督は一気に、だが正確に伝える。同時にトーマスが先程の施設から出て来る時に小脇に抱えていた紙袋の中に何が入っていたかがわかる。中にはカメラが入っていたのだ。が、まだ冒頭のシーンはどこにもリンクされていかない。この直前に奇妙なシーンがある。ロンドン市内の平凡な道端を二人連れの教会のマリアさん(黒人である)が左手から右手奥に向かって歩いている。前方からバッキンガム宮殿の憲兵の衣裳を着た男がやってきて、マリアさんとすれ違ったその時、憲兵はくるりと踵を返してマリアさんと同じように右手奥にそそくさと戻りはじめる。その時憲兵はトーマスのオープンカーがやって来るのを見たようなのだ。その直後にトーマスは騒々しい若者たちに取り囲まれる。このあたりのシーンは登場人物はかなり限定されていてそれぞれに意味を持っていると思われる。まず教会のマリアさんはトーマスと対極の存在だろう。そしてバッキンガム宮殿の憲兵さんらしき人物は最初はトーマスが来る方向に歩んでいるがオープンカーとみるや逃げ返るように元来た路を歩き出す(場所もそうだが通常の憲兵の仕事とは異なる)。憲兵はあの独特な衣裳は一般大衆からすれば宮殿の象徴的存在でもあろう。とするならばあの憲兵の歩行の変調には意図があったはずなのだ。
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この映画にはもう一つ重要なメディアが登場する。そのメディア(マチエール)が登場することでこの映画がいかに画像(映像)メディアの個性と特色を意識して制作されたかみえてくる。そのメディアとは、写真以上にオールドファッション・メディアと化した「絵画」である。「絵画」は二度登場する。最初は、骨董屋のシーンだ。トーマスは「ピクチャー」を探していると告げる。「ピクチャー」は、「フォトグラフ(写真)」や「イメージ(映像)」の意味もあわせもつが、ここでは「絵画」を指す(註4)。埃を被った骨董品が積まれた奥に一枚だけ大きな風景画がみえる。トーマスはその絵を購入したいというが、売約済みだと嘘をつかれる。観る方も狐につままれた気がするが、おそらくは年輩の老店員がトーマスにはこの絵を感じる心はない、と勝手に判断からだろう(その結果、トーマスは撮影の小道具として使えるようなプロペラを購入する)。 なぜそう言えるかというと、別のシーンで登場する友人のアーティストが、絵を購入したいと言うトーマスに「売れない」とすげなく言い返す場面があるからだ。アーティストはトーマスが、自分の絵を撮影用の小道具としてしか見てないことを察知しているのだ。しかしオブセッションを感じるものはひとそれぞれだろう。骨董屋の老店員や友人のアーティストにとって、公園で遭遇したカップルがみせるリアルで、不意の愛情表現の面白さは理解不能だろう。そのピクチャーを一心不乱に「Blow-upひきのばし」し予想もしえない”何か”が映りこんでいるのではと胸を高まらせるトーマスの感性は誰ももちえないものだ。写真には撮影時に気づかなかったモノやコトがある。絵画にはこうした不意の恩寵や局面はありえない(制作者のイマジネーションとして突然沸き上がることはあるだろうが)。 写真はその時(瞬間)の現実の様子やそのイメージ、そのディテールの情報を「所有」しうる。だからその「所有」を巡って対立が起こる。ここでは愛人との密会を撮られてしまった女性とトーマスの間の対立だ。「所有」された内様が重要なものであれば、この映画のように女性が自身の裸(あるいはセックス)を交換条件にすることすらありうるほどの対立である。 「絵画」は別のシーンでも登場する。先に少しふれたトーマスの友人のアーティストの家でのことだ。部屋にはまるでタイムトラベルでもしたかのように、二十世紀初頭のまさにブラックが描いた様な立体派の絵がイーゼルに立て掛けられてある。友人はつぶやく。「…最初は渾沌としていてやがて形をなしてくる。ここは脚だ…あとは自然に描きあがる。まるで推理小説だ」と。次いで場面は大きなキャンバスに描かれた六○年代のドロッピングアート風の絵を斜めからとらえ、すぐ次のカットに出てくる妻の服は白と黒のやや大ぶりのドットだけでデザインされている。まるで後に何度となく登場するトーマスが公園で撮って拡大したモノクロプリントを身体に巻きつけたような感じなのだ。妻の身体表面は謎と化す。後にトーマスは妻がある男と身体をあわせセックスしている場面に遭遇してしまう。謎は絵画の渾沌さから流れ出、トーマスに優しく接する妻、公園で撮った不倫する女、公園の茂みの奥で銃を構えていた男、殺された男、テニスをするパントマイムをするひとたちへと加速してゆく。 一方スタジオでは、トーマスはもう一つの白黒のドットの集合体を前にしている。それは「Blow-upひきのばし」された公園で撮影した写真である。ミステリアスな波の飛沫のようなドットは、妻の服のそれを思い出す。光と影だけでできたドットの集合体はそれだけでもミステリアスだ。そのドットの一点一点が、現実の写しの一部を担っている。トーマスは友人のアーティストの言葉を頭の中で反芻でもしたのか、そのドットの集合体の中に何かがあるのではないかと推理する。撮影時には気づかなかった公園にいた女性の〈視線〉が気になっていたのだ。それは不倫の相手の男性への視線ではない。公園の脇の薮の中に向かう視線なのだ。トーマスはその視線の先のドットの集合をあれこれ推理してみる。と、まるで推理小説のようにその映像から何かがかたちを成して現れてきたのだ。「死体」だった。だがその「死体」が今もそこに転がっているとは保証できない。事実、トーマスが確認に走った時にはすでに「死体」は無かった。「かつて、そこに、あった」という写真の最低限の定義(ロラン・バルト)すらここでは保証されないのか。それともそれは単に知覚の戯れとなのか。あるいは知覚の謎なのか…。 |
公開当時、全体から感受されるものがヒッチコック映画を彷佛とさせると言われたようだが、それはニュアンスだけで内実は大きく異なる。ヒッチコック映画のミステリアスな不安感は人間そのものから生じてくるものだが、この映画の不安感はメディア(絵画、写真、映像、ファッション)の性質から生まれてくる。監督アントニオーニはメディアに魅了されつつも翻弄され、欺かれ、知覚の暗渠に茫然自失してしまう人間を描いているのだ。よって世にごまんとある推理小説の方が最後に解を得れる分、精神的に健康である。だがこの手の映画は日常生活への知覚変動を発生させてしまい、非日常に連れこんでいく。 写真の発明は、ミステリー小説の起こり(エドガー・アラン・ポーの『大烏』や『アッシャー家の崩壊』など)とほぼ時を同じくすると言われているが、その後、社会や人間精神にはたらきかけていったものは大きく異なっている。写真はミステリー小説と違い、「謎」を宙ぶらりんにしたまま、メカニズムの完成後すぐに様々な組織や業界に取り込まれていく。ファッション産業はそのうちの一つで、イラストレーションの代わりに新作の衣裳を広く宣伝するにはうってつけであった。モード写真はファッション業界の経済行為とうまがあったのだ。 さて、写真家トーマスのモデルは、先述したように型破りなファッション・フォトグラファーとして人気を博していたデヴィッド・ベイリーといわれるわけだが、トーマス=ベイリーというわけではない。が、イメージとしてはトーマス≒(ニアイコール)ベイリーといってもいいだろう。というのも本映画のプロデューサーであるカルロ・ポンティは、この作品『欲望』を企画する前に、デヴィッド・ベイリー自身の体験を基にしたショートフィルム『ザ・フォトグラファー』を企画しているのだ。その企画は結局流れてしまうが、『欲望』にはプロデューサー、カルロ・ポンティの企図のスピリットが流れ込んでいるといっていい。監督アントニオーニは、トレンディーフォトグラファー、デヴィッド・ベイリー自身への関心はカルロ・ポンティほどにはなかっただろう(実際、監督アントニオーニは、デヴィッド・ベイリーには一度も会っていない)。初のハリウッド資本を背景に、アントニオーニはロンドンの人気写真家の生態や生活がどういうものか知るため有能なジャーナリスト(フランシス・ウィンドハム)にリサーチを依頼する。ウィンドハムはインタビューの相手にデヴィッド・ベイリーの他、デュフィ、テレンス・ドノバンを選び、三人への長時間インタビューを敢行し、二○○ページのレポートに纏まとめている。それが映画のメイン・キャラクターとなる一人のファッションフォトグラファーのイメージの造形に役立てられたのだ。トーマスが骨董屋で古いプロペラを8ポンドで買うシーンは実際にデヴィッド・ベイリーの実体験を基にしているし、彼が乗りまわすロールス・ロイスも色と型は異なるがベイリーも実際所有し乗っている。 トーマスが男女の密会を隠し撮りした公園であるが、映画製作の五年前にベイリーは「ロンドン公園」のシリーズを『ブリティッシュ・ヴォーグ』に発表している。その写真は当時ベイリーが考えていたメッセージもなくコマーシャルなものでもなく、気取りもないが意外とロマンチックなスナップだったようだ。けれどもその頃からスタジオ撮影だけで飽き足らず、戸外のロケーション撮影をしはじめており、トーマスが公園で使用していた35mmカメラ(reflex caemra。ベイリーもロケハン用に機動性が高いreflexを使用)を実際に使っている。それを見た大御所写真家セシル・ビートンはベイリーのことを「スモールカメラ・フォトグラファーの権化(ごんげ)」だと評している。コンパクトカメラはエネルギッシュに動き回って完璧なフォルムを見つけ出すベイリーにとってまさに最高の道具ツールだったようだ。公園でのトーマスの粋なカメラの構えと機敏な撮影は、まさにベイリーのそれだろう。 |
コンパクトカメラによる撮影は、冒頭のシーンの労働者の安宿のルポルタージュを可能にする。映画ではフェイクなファッション写真に飽いたトーマスが本物の写真を追っているようにみえる。安宿に泊まる労働者たちの真実の写真をブックに纏まとめて編集者に熱心に見せるシーンがあるが、このあたりはどうもベイリーの本当の体験ではないようだ。というのも「レポートする戦争が無い時、フォトジャーナリズムは退屈だ」とベイリー自身語っているからだ。ただ、ベイリーは労働者階級の住区であるイースト・エンドの風景やストリートを何度も撮影しているし(註5)、好奇心の溢れる若い頃にそうした場所に潜り込んだことがあるかもしれない。ベイリーはロンドンの北東に位置するレイトンストーンの郊外に生まれているので(映画監督アルフレッド・ヒッチコックもその地で誕生している)、かつて切り裂きジャックなどロンドンの歴史の陰部でもあるイースト・エンドはどこかに引っかかりがあり写真家として関心の対象にもなったのだろう。
引き延ばされたブローアップ写真の中の「死体」に対するトーマスの”捜査”は宙づりになってしまったが、アントニオーニ監督は最後に写真メディアを見切って、映像(映画)の”操作”をスタートさせる。それは麻薬パーティーで編集者やモデルの卵たちが吸う麻薬による幻覚とは異なるクールなもの、映画がなしえる感覚のトリックだ。それは無言のパントマイムが保持しえてきたパフォーマンスの秘密(見えないものを在るように感じさせる)のひとつに近いものだ。だからトーマスは集団でテニスをするパントマイムをする者がコート外に打ち出した見えないテニスボールをわざわざ取りに行き見えないテニスボールを投げ返すのだ。が、次の瞬間、わが耳を疑う。コートでボールを打つ音が聴こえてくるのだ。トーマスはカメラを手に呆然と立ち尽くす。そして彼自身の姿もその風景から静かに消されていく。
「写真」は印刷物にしっかり像が定着さえしてしまえば、そう簡単に消し去られれることはない。映画は時間の経過を持ち込み、ものの数秒で眼前から被写体を消すことも可能なのだ。最後に残るのは、「映画」そのものだ。そしてその映像を観る者の知覚と記憶が織りなすクールな脳内曼陀羅マンダラのみだ。