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映画の中に「写真」を読む ⚐


映画『ローマの休日』Roman Holiday(1953)          

監督 ウィリアム・ワイラー

     

   主演 オードリー・ヘップバーン、グレゴリー・ペック
      アカデミー賞最優秀脚本賞、アカデミー賞最優秀主演女優賞
      アカデミー賞最優秀衣裳デザイン賞
      ニューヨーク批評家協会賞優秀主演女優賞 他
     ♟オードリー・ヘップバーン-オスカー受賞の映像/Audrey Hepburn winning an Oscar® for "Roman Holiday"

 映画『ローマの休日』は、公開から半世紀以上たった今日でも、世界でそして日本で最も人気の高い映画の一つであり続けている。あの愛くるしく妖精のようなオードリー・ヘップバーンの輝きは、彼女自身が亡くなって以降も永遠に続いている。
 オードリーといえば『麗しのサブリナ』や『ティファニーで朝食を』、あるいは『尼僧物語』や『シャレード』のオードリーの姿・も印象深いが、『ローマの休日』のオードリーの輝きは、ちょっと特別のような気がする。プリンセスの王冠を被った顔写真やスペイン広場でソフトクリームを頬張る写真などは、写真集やポストカード、ポスターのみならず、日本では多くの企業のイメージキャラクターとなって毎年のようにどこかで見かける。まさに永遠の美のイコンといってもいいだろう。
 レオナルド・ダ・ヴィンチの「モナ・リザ」を美の象徴としてこれほどまでに世界的に有名にしたのは、レオナルド本人の類い稀なる能力は別とすれば、それは「写真」の力だともいわれている。オードリーも五十年以上にわたり映画関係書や写真集やファッション雑誌、CMをはじめとし、さまざまなメディアにその「写真」が掲載され、まるで「モナ・リザ」のように時代のイコンとして定着されていった。それは今日ではあまりに自然・・なことなので日常的には意識されることはまずないが、「写真」がまだ発明されていなかった時代のことを考えればいかに「写真」の機能が大きいか想像できよう。

 

 これとは真逆であるが、映画『ローマの休日』の物語内では、アン王女と新聞記者ジョー(グレゴリー・ペック)の間の信頼の証として「写真」が公にされることはなかった。つまり二人の秘密にされたのだ。なんとも皮肉といえば皮肉だが、これもまた「写真」の在り様の一つである。写真は報道写真からプライベートな写真まで「イメージの水」のごとき存在として人々の生活のあらゆる次元に入りこんでいる。まさに惑星における水のごとき役割を、写真が国・社会レベルから個人レベルに至るまで意識的/無意識的に果しているといっていいかもしれない。時に気体のように全世界を覆おおいつくし、時に液体のようになって人々の心に滲しみ込み、時に個体(固体)と化して誰にも見られることなく机の引き出しの中にひっそりと眠るのだ。
 『ローマの休日』は、切なくも美しいロマンス映画であり一級のメルヘン映画だと言われる。誰しもが冒頭の各国の外交官や要人との公式会見のシーン(ブランカッチョ宮殿にて)やスペイン階段でオードリーがアイスクリームを美味しそうに食べるシーン、海神トリトーネの「真実の口」に腕を差し入れるシーン、さらにはヴェネチア広場をスクーター(ベルタ)で二人愉快に走り回るシーン、宮中で新聞記者たちに向かいインタビューを受け最後の挨拶をするシーンなどをものの数秒で思い起こすことができよう。一つの映画の中でこれだけ多くのシーンを生き生きと記憶しえているのは他にはあまりないのではなかろうか。監督ウィリアム・ワイラーの高度な演出力、撮影カメラマンのアンリ・アルカンの技量とともに、実際の美しいローマ市街でオープン撮影(註1)、そしてオードリー・ヘップバーンの無類の輝きが重なりあって生み出されたものといえよう。

 この映画の中で「写真/カメラ」が登場するシーンはあまりにも有名だ。一つは、ジョーの同僚のカメラマンのアーヴィング(エディ・アルバート)がライター型カメラでローマに遊ぶアン王女を隠し撮りする場面で(最初のシーンはゲーテやワーグナーも通ったカフェ・グレコで王女がタバコをふかすのを隠し撮る)。二つ目は、その隠し撮りの後半部にあたるサンタンジェロ城前の船上ダンスパーティで王女を見つけるために本国から派遣された黒ずくめの捜査員たちを相手に大立ち回りをしている姿をアーヴィングがバルブ付きのカメラで激写するシーンだ。どちらも本映画の中心にある格別のシーンである。

 

 ではこの映画で最初に写真が登場するのは何処か覚えておいでだろうか。じつはアン王女が街に出るずっと前にすでに登場している。それはジョーが勤める会社アメリカン・ニューズ・サービスが発行する「ローマ・アメリカン」紙上に、「アン王女、急病-記者会見は中止」がトップニュースで扱われ、王冠を被ったアン女王の顔写真が掲載された時だ。寝過ごてすっぽかしてしまった王女の記者会見の内様について編集長とひとしきりやりあっった後、ジョーがその紙上の公式写真のアン王女を見た時、といった方が正確である。じつは次のシーンにも写真がしっかりと現れる。いま自分の部屋で寝ている女性がアン王女であるかもしれないとジョーがアパートの管理人に血相をかえて電話を入れる場面だ。オフィスへ至るの壁一面に貼られた報道写真の数々が映る。念が入っているのはその写真とジョーが電話をしている最中、彼が手にした新聞の王女の写真が一つの画面の中で重なって、これから起こるだろう事を予感させていることだ。

 次のシーン、ジョーは王女の私生活とマル秘情報、スクープ・インタビューをもし撮ったら幾ら出してくれるのか編集長につめよる。一見ジャーナリストらしからぬ言動だ。戦場カメラマンならずともスクープはジャーナリストにとって最高の勲章である。ただ彼の場合、その真意はスクープによる報奨金でポーカーで負った負債の返済にあてるためなのだ。編集長は「写真」付きの王女の恋の物語なら、五千ドル出そうとジョーに掛け合う。「写真」はインタビューの真実性を保証するための材料なのだ。もしスクープが取れなかった時は編集長への負債が倍となる約束としたため、ジョーは紙面のアン王女と昨晩の女性が本当に同一人物か紙面上の写真を眺めて記憶の中で何度も確かめる。ジョーは確信がもてない。アパートにとって帰り、紙面の王女の顔写真と寝ている女性の顔の傍らに近づけ同一人物かどうか見定めようとするシーンはなんとも面白い。紙面の写真は王冠をかぶり完璧に身繕いされ公式用につくられた写真なので、ふだんの生身の女性とはなかなか比較ができない。しかも紙上の顔写真は真正面を向いているため、ジョーのパジャマを着てぐっすり寝ている女性の顔の横顔とうまくつき合わせることができない。ジョーはうまい考えを思い付く。ジョーは「写真」による確認をあっさり諦め、「ユア・ハイネス!(王女様)」と呼び掛けたのだ。相手の方から自身を明らかにするよう無意識の条件反射を利用したのだ。案の定、目の前で寝ている女性が返答した。

 顔写真がからんだこの一連のコミカルなシーンは、次ぎのシーンの意味を裏書きする。アン王女がアーニャ(ジョーに名前を聞かれ咄嗟に思い付いた名前)となって街に繰り出るシーンだ。ジョーのアパートに通じる坂道の入口はトンネルになっていて、そこを抜けるとローマの街なかに通じるようになっている。アーニャはジョーに僅かばかりのお金を借り大使館に戻ろうとそのトンネルを抜けようとするその時だ。アーニャは身長ほどもある大きな絵画の額縁を抱えた男と対向するようにすれ違う。その額とは舞踏会の後で侍従とスケジュールの打ち合わせをしていた時に、「三時五分に贈呈される〈額〉」に恐らくは一致している。ただ、王女に贈呈するほどの額をひとりの男が両手に抱えて道を歩くわけはなく、またジョーのアパートの近くですれ違うはずもない。ここで〈額〉はまったくシンボリックに扱われている。つまりこれからアーニャが独りで向かおうとしている所は、大きな〈額〉に嵌め込まれた絵画の世界(註2)ではなくて、大衆と同じ次元にある「写真」に満ち溢れた世界なんだよと告げているのだ。

 王女が街に出てしまうと、ジョーはいてもたってもいられず彼女の後をつける。このままではスクープ・インタビューもましてや報奨金を釣り上げることができる写真という格好の材料も残らないまま絶好の機会をみすみす逃してしまうことになる。アーニャが美容室に入り髪を切っている間、ジョーはなんとかその姿を写真に撮ろうと、ローマの遺跡を見学する中学生たちのカメラを貸してもらおうと奮闘する(なんといっても世に言うヘップバーンカット誕生の瞬間なわけだから)。それは「街↓カメラ」の存在を観客に意識させるシーンだ。付き添いの先生にも睨まれ結局ジョーはカメラを手にすることはできない。時は刻々と過ぎて行く。

 

 観客は髪を切って生まれかわったアン王女が愉し気にローマを散歩するのを覘き見でもするかのように、ハラハラしながら追う。同時に一挙手一投足を見逃さまいとして、自身がカメラアイとなって心の印画紙に焼き付けようとする不思議な感覚を覚える。時にジョーの視覚となって、時に自分(観客各々)だけのアーニャの目撃者(ロマンの共有者)となって。そして何度となく、ああ、あの一瞬一瞬の姿は、もう存在しえないのだ、消えてしまうのだ、というどこか底はかとない切ない気持ちが込み上げる。オードリーへの思いとオマージュとが合い重なって(註3)、どこか〈奇蹟〉をみるような気分になっていく。その思いはカメラマンのアーヴィンが登場し小型カメラでアーニャを盗撮しはじめるようになって不思議に減少しはじめる。カメラによって記録される安心感なのだろうか。

 ちなみにアーヴィンがアーニャを隠し撮りした時に使用したライター型極小カメラは日本製である。鈴木光学が一九五一年(昭和二六年)に開発していた通称「エコー8」と呼ばれていたものだ。じつは鈴木光学のみならず秋田製作所、アース光学、三和商会(上記三社は日本の極小型カメラ御三家と呼ばれていた)といった会社が戦後、極小カメラをアメリカに大量に輸出し外貨を稼いでいたのだ。極小型カメラには、ライター型の他に指輪型、ステッキ型、ラジオ型、時計型と様々な用途に合わせたものがあったので、もしアーヴィンが結婚していれば指輪型極小カメラでアン王女を盗み撮りしていたかもしれない。もう一つのオードリーの代表作『ティファニーで朝食を』(監督ブレイク・エドワーズ)ではマヌケ日本人カメラマンが登場する(オードリー扮する主人公に写真撮らせてあげるからと言われニヤケる男だ)。あの時代、日本人はデッ歯で眼鏡をかけカメラを持っているという当時のステレオタイプそのままの日本人カメラマンだ。そうした変人扱いの日本人が登場することもなく極小型カメラだけがひっそり登場した『ローマの休日』は、後生の日本人にとって永遠のメルヘンを保証することとなったといっていい。

 

 だが、なぜ当時スパイカメラへのニーズが高かったのか。ここで『ローマの休日』という最高のメルヘンを支える、あるいは生み出した「現実」(政治的時代背景)を少し確認してみよう。じつは一九五○年代は一歩間違えば、再び戦争が勃発する危機感が漂っている時代だったのだ。対ナチ・ファシズムへの共同戦線を張っていたアメリカとイタリア間の政治状況も一九四○年代後半から五◯年代初頭にかけて決して友好的とばかり言っていられない状況で、当時イタリアの政治状況も不安定でイタリア共産党が政権をのっとる可能性すらあったといわれている。アメリカのCIA(Central Intelligence Agency中央情報局)はイタリアの選挙戦へ介入し、当時の金額で一○億円がキリスト教民主党の選挙資金に注ぎ込まれたyouda

。準軍事的工作ともいわれる秘密の政治的宣伝すら行われていたのだ。一九四七年のCIA創設以降、情報収集以外ではじめて秘密工作が実施されたのがイタリアだったのだ。

 『ローマの休日』が公開された一九五三年という年は、アレン・ダレスがCIA長官に任命され(アレン・ダレスは、一九五三、五四年はCIA最良の年だったと回顧している)、翌五四年にはソビエトでKGBが創設されている。それは一九五○年に勃発した朝鮮戦争で情報面での不備が、米ソに情報機関の重要性を改めて気付かせた結果だったといわれている。ちなみに同五三年には、スパイ娯楽映画「007シリーズ」(第一作は「007ドクター・ノオ」(一九六二年公開)の作者イアン・フレミング(実際に英国の秘密情報部員だったことは今では広く知られている)が、007ものの執筆に取りかかり、「カジノ・ロワイヤル」を脱稿し翌年には「死ぬのは奴らだ」と次々と作品を発表していく。『寒い国から来たスパイ』(ジョン・ル・カレ)は、米ソ英仏の連合国が共同管理するベルリンが舞台だった。世界は情報戦の新時代に突入していたのだ。

 

 それはアメリカ人カメラマンのアーヴィンがスパイカメラを携帯していたことや、あの手際の良いスパイカメラの使用にイタリアの当時の政治状況が垣間見えよう。第二次世界大戦後の一九五○年代は東西両陣営がテーブルの下でお互いの思惑を探りあう時代だったのだ。当時の世界情勢を知れば、アン女王がベッドから突然消えてしまった時の大使館や政府関係者たちの慌て様は、黒ずくめの秘密警察員たちを除けば真実味があるのだ。

 その一方、ヨーロッパ各国では友好的な関係を築き、大戦の疲弊した経済を立ち直らせようという気運が高まっていた。当時世界各地の映画館で実際に流されていた「パラマウント・ニュース」の時事的なスタイルを利用したプロローグはまさにそれで、プリンセス・アンの役回りは極めて重要なものだったことがわかる(註4)。話としてはありえないロマンチック・メルヘンであるにもかかわらず本映画が時代の気運とダイダミズムをあわせもっているのはそうした時代背景の描き込みによる。

 またそれ以上に本映画の魅力をつくりだしているのは、王室と民衆(一般大衆)との対比がたくみな演出でなされていることだ。ガウンとパジャマ、クッキーとピザ、ミルクとアイスクリーム、王室内での言葉と庶民の言葉、室内の装飾、ヘアスタイル、そして伝統的絵画と写真だ。観る者の心は王室への憧れと息苦しさ(アン王女は従医から幸福を感じる最新式の鎮静剤を注射される)の間に揺れ動くのだ。

   

 最後のシーン。報道陣との会見(謁見式)に使われた大使館内の建物の内装の荘厳さと、左右の高い壁面の一面を埋め尽くすように掛けられた巨きな絵画に囲まれたあの有名なシーンだ(コロンナ宮殿で撮影。宮殿内の美術館も著名である)。中世のルネッサンス期からバロック、ロココ様式へと続く巨匠たちの作品群の圧倒的存在感は、伝統的絵画と写真の対比で演出効果を最高度に高めるにはもってこいの舞台といっていい。人間ですら卑小にみえてしまうその荘厳さのなかで、「ローマでの記念の写真です」とカメラマンのアーヴィンが王女に差し出した写真のなんとちっぽけで、薄っぺらで、安っぽいことか。しかし荘厳な絵画群を圧倒するほどの透明な輝きがたった数枚の写真から放たれたのだ。あの場面で「写真」に代わるものがあろうか。写真は時にあまりに密かなものであり、ルールもおよそなく、不躾でぶしつけ、人々のプライバシーと引き換えに高額に取り引きされることもある(ダイアナ妃を盗撮したパパラッチなど)。

 王女への「写真」の受け渡しは、ジョーとアン王女の信頼と友情の証だけでなく、ジョーとアーヴィンの友情の証でもあった。秘密を三人だけが確かに共有しあったと確信した時、アーニャであったローマのあの一日の輝きに嘘はなく本物であったこと、そしてその一日がもう戻ることはない、夢のような一日だったと思い描いた時、アン王女は最後に自分自身の言葉・・で語りだす。—最も印象に残った街、それは「ローマ」だったと。

 エンディングで、ジョーの背後に荘厳な建物を埋め尽くす絵画がもう一度見える。もはやアーニャはその向こう側の存在者である。完全に隔てられる。アーニャは大衆と次元を異にしていることが強調される。このシーンはこれまでのハリウッド映画で、つまり王室の存在しない米国では絶対につくられることはなかったエンディングだと言われている。これは王権(日本の皇室は王室・・である)、あるいは「王」(あるいはプリンセス)の存在論を容易に呼び込む。日本では六年後の昭和三四年に皇太子とはじめて民間から皇室に嫁いだ正田美智子さんの御成婚パレードに後に雅子妃に人々は熱狂した。王室と大衆は、それぞれの時代に関係を象徴的に取り結ぶ。アン王女しかり、ダイアナ妃しかり、雅子妃しかり。『ローマの休日』で、わたしたちは自身の幻想の中のプリンセスと一日を楽しんだのだ。おそらく重大な何か・・と引き換えに—

    

 
(註1)それ以前には一つの街全体・・・をオールロケーションで撮影された映画は、ロベルト・ロッセリーニの『無防備都市』ただ一作といわれている。街を「社会的風景」として画面に取り入れたり、街にロケーションをとった映画は、同じくロッセリーニ監督の『ドイツ鈴年』や『戦火のかなた』やジュリアン・デュヴィヴィエの作品など数多い。
(註2)それは王室という〈額〉に嵌め込まれたアンの人生のメタファーでもあり、事実、ゆくゆくはその額の中にアン自身の肖像画が描かれ壁面に飾られるだろう。実際にアン王女の滞在場所として映画の中で使われた部屋は、バルベニー宮で現在は、偶然にも国立絵画館となっている。
(註3)一九九三年死去 六三歳。最後の言葉は「ごめんなさい。もう行くわ」だったという。グレゴリー・ペック 二○○五年死去。
(註4)ヨーロッパ最古の王室の王女がロンドンを皮切りに各国を親善訪問する様子をドキュメンタリー風に映写している。その王室外交の様はヨーロッパの成り立ちをも知らせてくれる。
(註5)ジョーはカメラマンのアーヴィンにその写真をどう使おうが任せていた。最高のスクープネタとして売ることも可能だった。当時ハリウッドの赤狩りマッカーシズムに心を痛めていた監督ワイラーはこのシーンで米国人が信頼と友情を大切にする国民であることの証をここにこめた。