Sebastiao Salgado 「An Uncertain Grace」より by Aperture 1990

写真/カメラとは、不可視のものを可視にするテクノ装置とも言えよう。少なくとも下にあげた写真は、どれもサルガドがその場所に行き、また居合わせ撮影しなければ他の誰も見ることも感じることもなかった唯一の時間であり場であったであろうからだ。右端上の写真はタイのクリスチャン・チルドレン財団によって支援されている学校の子供たちが皆で樹に上って遊んでいる姿だ(1987年撮影)。 無論、同時的にその現場でありそこにいる人々の気持ちを伝えきることはかなわない。本写真が刊行されたのは、タイの子供たちが撮られた3年後、エチオピアの避難民が撮られた5年後だ。しかしその時の人々の喜びや痛み、悲しみ、そのひとたちや、部族や民族が生き続けるかぎり継がれつづけているはずである。写真のマイナスポイントでもあった(場合によってはそれがプラスともなるが)、時間のギャップは、じつは人が見るというその極私的時点では一気にプラスに転じていく。サルガドも写真について論じていたが、写真は「認識の同時性」をもたらすことができるからだ。写真の背景についての充分な分析や解析は必用だったりもするのだが、まずはグィッと人の意識を写真に写された世界に引き込んでいくことができるのだ。それは言葉を越えたひとの気持ちの暖かさが伝わる回路でもあり、また時にコンポジションが美しい”ヴィジュアルなメタファー”を通して、視覚・感覚や認識の回路が瞬時に開かれていくのだ。

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